2015年の10月1日から7日の期間で、甘粛省の武威、張掖、酒泉、蘭州の4都市を旅しました。
前回は天梯山石窟を訪ねた後、武威名物「面皮子(麺ピーズ)」をいただきました。

三蔵法師「鳩摩羅什」ゆかりの寺院と「銅奔馬」出土の漢代の墓
鳩摩羅什寺
10月3日の12時、鳩摩羅什(くまらじゅう)寺に到着しました。


西域で生まれ長安で没した三蔵「鳩摩羅什」
鳩摩羅什は西域生まれの仏僧で、数多くの仏典を漢語に翻訳し、最初の三蔵法師として知られています。「三蔵」とは訳経僧のことを指し、西遊記で有名な玄奘だけが三蔵法師と呼ばれているわけではありません。
鳩摩羅什は長安(現在の西安)で仏典の翻訳に従事したことで知られていますが、それまでは武威に(人質として)滞在していました。
“https://ja.wikipedia.org/wiki/鳩摩羅什” から引用
350年 インドの名門貴族出身でカシミール生まれの鳩摩羅炎(クマーラヤーナ)を父に、亀茲国の王族であった耆婆(ジーヴァー)を母として亀茲国に生まれる。356年 母と共に出家。
360年代 仏教における学問の中心地であったカシミールに遊学。原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。カシュガルで12歳にして梵語の『転法輪経』を講じ、五明を学ぶ。
369年 卑摩羅叉(びまらしゃ、ヴィマラークシャ)より具足戒を受け、須利耶蘇摩(しゅりやそま、スーリヤソーマ)と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。
384年 亀茲国を攻略した前秦の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。
401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転。
402年 仏典の漢訳に従事。その後、羅什亡き後の跡継ぎを欲する姚興の意向を受け入れ、僧院を出て十人の妓女を娶って妻帯・還俗し、私邸に居住するようになる。
409年 逝去。
臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法にしたがい火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(『高僧伝』巻2)。
私が以前訪れた鳩摩羅什ゆかりの史跡です。
- 陝西省西安市郊外にある鳩摩羅什が仏典翻訳に従事していた寺院「草堂寺」

- 甘粛省の敦煌にある鳩摩羅什の愛馬を弔った「白馬塔」



上記の説明にある通り、鳩摩羅什は前秦を興した呂光により人質・捕虜という形で涼州に滞在しましたが、呂光は彼を手厚く保護し、布教活動のために建ててあげたお堂がこの鳩摩羅什寺の始まりです。


羅什寺塔
鳩摩羅什は401年に涼州を去り長安に移りましたが、涼州では尊敬の対象であり続けました。鳩摩羅什が409年に長安で遷化(亡くなること)した後に建てられたのが羅什寺塔です。



八角形の12層、高さ32メートル。長い年月を経て改修を繰り返されながら現代に残ります。
派手さはないが朴訥として見ていると何だかホッとするような佇まいをしています。武威のシンボルのひとつだと思います。










雷台漢墓
13時、雷台にやってきました。


もともとは前凉(西暦301年-375年)時代に王が祭礼をする台座の跡ですが、付近から後漢時代の大規模な墓が発見され、そこから出土したのが「銅奔馬」です。


銅奔馬は甘粛省のシンボルと位置づけられており、現在は蘭州の甘粛省博物館に展示されています。


お墓のそばには廟が建てられています。












張掖へ移動する
14時、これから鉄道で張掖に移動します。2時間の道のりです。運転手さんに武威駅まで送っていただき、お別れをしました。
次回、張掖編スタートです。
ここまで読んでいただき、大変感謝!
ありがとうございました!