2011年10月、シルクロードの街として有名な観光地「敦煌(とんこう)」を訪れました。
前回は敦煌郊外の史跡「鎖陽城跡」「楡林窟」を訪ねた後、嘉峪関市に向かいました。
工業都市として発展する嘉峪関市
嘉峪関は敦煌よりもでかい
張さんによると嘉峪関市は鉱物資源が豊富で採掘場があったりメーカーの工場を誘致したりで、なかなか産業が賑わっているようで年々人口が増えているそうです。
確かに来る途中マンションがボンボン建っていましたね。
敦煌の砂っぽいシルクロードの雰囲気から、いっきに中国ローカルな雰囲気になりました。
夕食です。
チンジャオロース。
写真がブレちゃっていますが、下の黒いものは「醋粉(ツーフェン)」といって、酸っぱい煮こごりというか、春雨状のものです。サラダにして甘酸っぱいタレをかけていただきます。食欲がすすみます。
嘉峪関賓館
食後ホテルに移動しチェックインしました。「嘉峪関賓館」です。今夜ここに一泊し、明日嘉峪関を見学した後、嘉峪関空港から飛行機で西安に戻ります。
翌朝、ホテル前で馬さんを待ちます。馬さんは昨晩は酒泉の自宅に帰って久しぶりにご家族と過ごしたそうです。嘉峪関と酒泉は目と鼻の先です。
「天下第一雄関」の嘉峪関
嘉峪関にやってきました。嘉峪関も莫高窟と同様、世界文化遺産に指定されています。
まだ開門前らしく、ちょっと待ちます。
大きな観光地では団体客の人たちが記念撮影をしているのをよく見ます。
嘉峪関入口の横には大きな池があります。嘉峪関市は水資源も豊富みたいです。敦煌と比べると確かに緑の樹木が多いように感じます。
開門しました。
嘉峪関は明代の1372年に創建、完成は168年後の1540年という大事業でした。
陸のシルクロードの終焉
嘉峪関が築かれたのは元王朝の残党であるモンゴル族からの侵攻を防ぐ目的でした。
しかし、嘉峪関を設けてこの関を閉ざすということは、ここから西側の安西(瓜州)や敦煌を放棄することも意味していました。
また、嘉峪関が建設されたのと同じ時期、1453年に東ローマ帝国が滅亡し、オスマン帝国の勢力が絶大になると、シルクロードはその自由な通行を閉ざされ、東西の交易は次第に海のシルクロードへと移行するようになりました。
大航海時代が訪れ、陸のシルクロードの繁栄の輝きは過去のものとなっていったのです。
城壁の高さは11メートルになります。
「天下第一雄関」は嘉峪関の代名詞です。
さすがに関の内部も広いです。
関の上から向こうを見ると、何もない荒野でした。その中に長城が彼方まで伸びているのが見えます。
関所の執務者の寝室。
仕事部屋。
ひとつだけ余ったレンガの伝説
嘉峪関の建設当時を物語るエピソードに、ひとつポツンと置かれたレンガ「定城砖(ディンチャンジュアン)」の伝説があります。「砖(ジュアン)」はレンガです。
「易開占」というレンガ職人は上司の現場監督者に99,999個のレンガが必要だと報告しました。上司は「1個でも間違ったら易開占の首を刎ね、ほかの職人には3年の労役を課す」と脅しました。
その後、嘉峪関が完成したとき、あの上司がレンガがひとつだけ西側の城楼の上に置かれているのを見つけると、易開占に詰め寄りました。しかし彼はあわてずに答えました。
「あのレンガは神様が置いた『定城砖』だ。もし動かしたら城は壊れてしまう」
これを聞いた現場監督者は言い返すことができず、以後、このひとつ余ったレンガは現在に至るまで同じ場所に留め置かれています。
次回、万里の長城の西端「第一墩(とん)」「悬壁(けんぺき)長城」を見学し、嘉峪関空港に向かいます。
このシルクロードの旅もついに終わりを迎えます!