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【小説】北方謙三「史記 – 武帝紀」

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北方謙三「史記 – 武帝紀」(文庫全7巻)を読みました。(名古屋市の図書館で借りました)

北方謙三「史記」

あらすじトピック(ネタバレご注意)

  1. 中国前漢の第七代皇帝「武帝(劉徹:りゅうてつ)」:紀元前141年-87年
  2. 古来、中国はモンゴル地方を拠点とする北方騎馬民族「匈奴(きょうど)」の侵攻に悩まされていた
  3. 十六歳で皇帝に就いた劉徹は匈奴侵攻の排除、そしてその先にある西域との交流を目標としていた
  4. 張騫を西域に派遣したが、何年も帰ってこないので次第に忘れかける
  5. 寵姫(衛子夫)の弟にあたる「衛青(えいせい)」が匈奴との抗戦で実績を上げる
  6. 西域から戻った張騫が十三年の月日を経て長安に帰還、西域との交流の礎を築く
  7. 衛青の甥にあたる「霍去病(かくきょへい)」が頭角を現し、匈奴をオルドス以北に追いやる
  8. 衛青と霍去病の活躍により、武帝は西域のみならず朝鮮や四川、ベトナムにも侵攻し、漢帝国の覇権を轟かす
  9. 文帝の時代から仕える将軍「李広(りこう)」が匈奴戦での進軍の遅れにより自害する
  10. 霍去病が二十四歳の若さで急逝し、戦場で傷を負った衛青も往年の活躍は影を潜める
  11. 心に穴が空いたようになった劉徹は無謀な匈奴戦や建設、行幸を繰り返す
  12. 衛青が病により亡くなる
  13. 李広の孫「李陵(りりょう)」が頭角を現す
  14. 李陵の友人「蘇武(そぶ)」は匈奴への使者として赴くが囚われの身となり、罰として北海(バイカル湖)の北辺に流される
  15. 李陵が率いた軍勢は匈奴の領地深くに入り込みすぎ敗戦を喫し、李陵は匈奴の捕虜となる
  16. 李陵が匈奴の将となり漢軍と戦っているとの噂が長安で流れ、劉徹は激怒し李陵の家族と一族を皆殺しにする
  17. 議場で李陵をかばう発言をした「司馬遷(しばせん)」が劉徹の怒りに触れ、宮刑(去勢の刑罰、金玉をもがれる)に処される
  18. 李陵は家族一族が皆殺しにされた事を知り失意の底に落ち、本当に匈奴の将軍となる
  19. 司馬遷は中書令の役職に就き、劉徹の身の回りに起きることのほとんどを書き記しながら、父の代からの悲願であった「太史公書(史記のこと)」を書き上げる
  20. 劉徹は崩御の前日、末子の劉弗陵(りゅうふつりょう:後の昭帝)を次の皇帝と宣言、幼い劉弗陵の庇護者として霍去病の異母弟「霍光(かくこう)」を大司馬大将軍に抜擢する
  21. 皇帝に即位して五十五年、劉徹は六十九歳で崩御。「武帝」の諡が送られた
  22. 劉徹の幼馴染でよき相談相手であった桑弘羊(そうくよう)は劉徹の崩御後、事あるごとに霍光の進め方に反対の立場を取り続けた。これは霍光の悩みの種となっていた
  23. ある夜桑弘羊は霍光の屋敷を秘密裏に訪ね、霍光に「いま私の周りには帝やあなたに反発する人々が集まっている。近い将来、この派閥は必ず大きな騒ぎを起こす。その時は私も含め全員を残らず掃滅してほしい。それが武帝が私に託した最後の仕事である」と告白した。このことは霍光を驚かせ、武帝と桑弘羊の結びつきを強く印象付けた
  24. 霍光は匈奴に和平の使者を送り、李陵の返還を要望するが、漢に戻る気のない李陵の意思を尊重する単于(ぜんう:匈奴の最高権力者)はこの要望を拒否する代わりに、李陵に対して蘇武のいた北海の北に赴くよう命じる
  25. 匈奴に残る選択をした李陵に対して蘇武は漢への帰国の提案を受け入れる。二人は宴席で終生の別れに無言の涙を流す

感想

匈奴の人々

漢だけでなく、匈奴の単于、軍人「頭屠(とと)」らの人物描写や生活風習も巧みに描かれていて物語に深みを与えています。単于は早逝する人が多く、志半ばで思いが潰えるのはその都度さみしく思いながらページをめくっていました。

匈奴の常食である羊が実にうまそうです。実際うまいです(内モンゴルや新疆を旅して培った経験談)。肉を生で食らう描写が度々ありますが、殺した後すぐなら生で食べても大丈夫なのかな?

桑弘羊

桑弘羊が武帝劉徹の遺志を継ぎ、命を顧みずに反乱分子を取り除こうとしたのに感動しました。この小説の漢サイドにおけるクライマックスです。

「死」について

早逝する歴代の単于もそうですが、この小説には死が多く登場します。(もちろん、漢と匈奴で浪費される名もなき兵士たちも)

衛青は奴僕の身でありながら皇帝の愛妾となった姉に嫉妬した皇后の母親から迫害されそうになったのを救われ、出世します。「一度は死んだ身」であるとして、皇帝劉徹にその身を捧げるような活躍をします。

劉徹は皇帝としてその指を動かすまでもなく人を殺すことを命じることができ、最高権力者である彼は、始めは「俺は選ばれた天子(皇帝)であり、決して死ぬことなどない」と、「茂陵(もりょう:劉徹が葬られた陵墓)」にも生きて入るものだと思い込んでいました。

しかし自分と同様に全く死の影を見せなかった霍去病を突然失ったことにより、虚無感が劉徹を襲います。栄枯盛衰(仏教はこの時代にはまだ中国には来てないけれど)の観念が次第に彼を「やはり俺も死ぬのかも」という思いにさせていきました。

李陵がもっとも多くの「死」を経験しました。五千の歩兵で匈奴の奥深くまで侵入し、善戦したもののほとんどの兵を死なせ、当の指揮官である自分は生き残りました。そのせいで家族一族は皆殺しにされた事実は李陵を「死」に至らせるには十分だったでしょう。

匈奴の民として受け入れられ、新しい家族を築いても、李陵の心を満たすことはありませんでした。

李陵のかつての部下であった「孫広(そんこう)」が李陵に立ち向かい、「何度でも死んでお前を討つ」と叫ぶのを「そんな心がけじゃダメだ」とばかりに李陵が孫広の首を刎ねるのは、多くの死を受け入れた李陵ならではであったでしょう。

そんな李陵を慰めたのはかつての友であった蘇武と、蘇武の生きる北海の大地でありました。蘇武は主要な登場人物のうち、唯一「死」を感じさせず、「死」を独力で跳ね返した人であったと思います。

司馬遷は青年時代に諸国を遊歴し民の窮乏を目の当たりにしながら「理論こそが正しい道であり、それだけが国を良くするのだ」という思いを強くしますが、それは帝(劉徹)に宮刑に処されたことにより絶たれました。

男子が男子でなくなるということは子孫繁栄を尊いとする中華の思想では恥辱の極みでした。その意味では司馬遷は死んだのでありましょう。しかし、失意のどん底で司馬遷はのたうち回りますが、決して「死」を意識することはなかったように思います。

それは父に託された仕事(歴史を書き残すこと)を心の底に支えとして持っていたからに他なりません。

司馬遷は宮廷に復職したあと、中書令として劉徹の覚えよく重用され(それもひどい話ですが)、史記を書き上げます。その後の司馬遷は少年の弟子をとり、これまでの自分の人生を省みながら、世の中の流れや人々の営みを暖かく見つめ直します。

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その後の歴史

小説の後の歴史について記します。

李陵

匈奴に留まった李陵は紀元前74年に死去。この年、漢では武帝のひ孫にあたる「劉詢(りゅうじゅん)」が第十代皇帝として即位しています(宣帝)。李陵と匈奴の女性との間に生まれた男子は後に単于の跡目争いに巻き込まれ、処刑されてしまいました。

蘇武

紀元前81年に匈奴から漢に戻った蘇武は、桑弘羊と上官桀(じょうかんけつ)が起こした反乱に連座したかどで免官されますが、宣帝の擁立に関与したことで復帰し、亡くなったのは紀元前60年、八十歳を越えていました。匈奴の女性との間にできた男子(蘇通国)も漢王室に取り立てられました。

桑弘羊

紀元前80年、燕王(昭帝の兄)や将軍の上官桀らと組み、霍光を弾劾する上申をしたものの昭帝が拒否、逆に逮捕され、処刑されました。

司馬遷

司馬遷の没年は定かではありませんが、武帝崩御の時は存命だったのではないかとされています。司馬遷の墓は陝西省韓城市にあります。私も訪れたことがあり、いつか記事にしたいと思います。

※2023年8月更新:司馬遷の故郷・陝西省韓城市の旅行記を投稿しました。

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霍光

武帝の命で大司馬大将軍に就いた霍光は、昭帝、宣帝を補佐し、紀元前68年に亡くなりました。霍光自身は決しておごらず慎ましい人として通しましたが、霍光の後を継いだ霍禹(かくう)など彼の親戚一同は傲慢なふるまいが目立ち、宣帝に政治の実権を取られると、最後には一族のほとんどが処刑されました。

なお、日本で用いられた「関白」という位は霍光に関係しています。

Wikipediaから引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/霍光
霍光と日本の関白
霍光によって擁立された宣帝は、即位当初に霍光に政権を委ねる旨の詔を発したが、その際に用いられた文言「関(あずかり)り白(もう)す」が、日本の実質上の宰相であった関白の名の由来とされる。また、関白の異名として「博陸」とも称するが、これは霍光が博陸侯であったことに由来している。

初代関白である藤原基経は、陽成天皇を廃して皇族の長老の光孝天皇を擁立した。『神皇正統記』ではこの行動を昌邑王劉賀を廃して宣帝を迎えた霍光のそれに擬えて、讃えている。

昭帝

昭帝は紀元前74年に二十一歳で病により亡くなりました。次の皇帝となった劉賀は素行に問題があり1ヶ月でクビになり、市井で育った劉詢(宣帝)が即位し、弱体化しつつあった漢を復興させることに尽力しました。

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