今回は唐の第2代皇帝太宗の陵墓「昭陵」の訪問記です。
唐第2代皇帝・太宗(李世民)
唐の第2代皇帝太宗である李世民(在位:626年 – 649年)は長ーい中国史の中でもひと際名君の呼び声高い君主として知られています。
青年期から父である李淵(後の唐高祖)と戦場を渡り歩き、戦功を数多く挙げ、唐建国の立役者のひとりでした。
ただこの李世民には皇太子であった長兄(李健成)がおり、次第に兄弟とその取り巻きたちとの間で対立が深まります。
そして629年、「玄武門の変」での抗争で李世民は李健成と弟である李元吉を殺害、父の李淵は李世民に皇帝の座を譲位します。
お父さんはずいぶん閉口したでしょうね(笑)
貞観の治
血生臭い抗争で権力を手中にした李世民(太宗)ですが、即位後は自らを律し、戦乱で荒廃した国の復興に捧げます。
太宗は即位してしばらくしてから元号を「貞観(じょうがん)」と改めますが、後の世ではこの元号をとって太宗の敷いた善政を「貞観の治」と呼ぶようになりました。
魏徴の登用
当時は隋唐の戦乱で国が荒廃し、早急な復興が課題でした。
太宗は律令体制の整備を推し進めます。「律」とは刑法、「令」はその他の多くの法律です。
それまでの過酷な賦役の規則や刑罰を改め、疲弊していた民を安んじます。
房玄齢、杜如晦、魏徴などの能臣を抜擢し、彼らも太宗をよく補佐しました。
とりわけ魏徴は玄武門の変で敵対した長兄側の側近でしたが、彼の能力と人格を評価していた太宗は即位後も彼を取り立てました。
突厥討伐
もともと戦場で名を馳せた太宗ですから、軍事にも力を入れ大きな成果をもたらしています。
当時中央アジア一帯を支配し、唐の領地をも度々脅かしていた「東突厥(とっけつ)」を、李勣、李靖ら将軍たちの活躍で討伐に成功します。
その後西域の重要拠点であった高昌国(現在の新疆ウイグル自治区トルファン)も滅ぼし、西域との交通を安定させることに成功しました。
玄奘が教典を持ち帰る
玄奘三蔵が陸路でインドに渡り、20年の歳月をかけて教典を長安に持ち帰ったのもこの頃です。
太宗は玄奘を支援して教典の翻訳作業を行わせています。
昭陵を訪ねる
太宗の陵墓「昭陵」は西安の北西約60キロ、咸陽市礼泉県にあります。
地図の左上が昭陵、右下が西安市内ですね。星印がたくさんありますがお気になさらぬよう。
昭陵の近くには近年観光名所として大変賑わいを見せている「袁家村(ユエンジャアツン)」があります。(上の画像、昭陵の少し下の星印です)
したがって昭陵を訪れるには袁家村行きのバスに乗って行けば便利なのです。
袁家村行きはいくつかの場所から発車していますが、わたしは「城北客运站(チャンベイクーユンジャン)」から行きました。北のバスターミナルです。
バスは確か30分おきくらいに頻繁に発車していますから便利です。
午前8時半バスは高速道路に入り、途中工事渋滞などあり10時過ぎに袁家村に到着。
せっかくですから袁家村も見物していきましょう!
長くなってしまったので続きは次回!