2011年10月、シルクロードの街として有名な観光地「敦煌(とんこう)」を訪れました。
砂漠に真ん中に佇むオアシス寺院「月牙泉」、謎に包まれたまま滅びた王朝「西夏」の文字で書かれた書物が発見された石窟「莫高窟」など、古代シルクロードの魅力あふれる名所旧跡もさることながら、西安から敦煌まで22時間半もの時間を過ごした寝台列車も、私にとって忘れることのできない思い出となりました。
人生初の寝台列車に乗車する
西安駅
2011年10月、当時の私はまだ日本におり、すでに西安に在住していた学生時代の先輩を頼り、毎年のごとく西安を訪れていたといった調子でした。
西安駅。
これから向かう「敦煌」は甘粛省の西の端で、古くは前漢の武帝が西域攻略の拠点を置いた場所。
当時としては辺境の果ての果て、もしも赴任を命ぜられれば生きて長安の都に帰ることはないことを意味したことで、唐代の詩人「王維」が西域に派遣される友人に向けて詩を詠んだことでも知られています。
曇っていますが、この曇り空こそ西安、という感じがしなくもありません。
記念撮影。いま見るとだいぶ痩せているね(笑)。
西安駅のプラットフォーム。
寝台車両
私は等級の高い寝台車両である「軟臥(なんが、软卧:ルアンウォ)」の切符を購入していました。
「軟臥」の車両は2段ベッドが2つを一部屋としてそれぞれ区切られています。
私は若い夫婦と赤ちゃん、そしてご夫婦どちらかのお母さんであろうおばさんの4人家族と相部屋になりました。
中国の鉄道の飯を食う
午前10時56分に列車は発車。
しばらくすると車内販売のおばさんがやって来たので、身振り手振りでお弁当を買いました。
当時はカタコトの中国語さえままならなく、「シェーシェー」「ニーハオ」「ツァイチェン」くらいしか分かりませんでした。
値段は25元(当時で500円くらい?民主党政権末期でまだかなり円高だったはず)と記憶しています。
お弁当は出来合いのものではなく、でかい寸胴からおかずとご飯を容器によそってくれるスタイルのものです。味は素晴らしかったことは言うまでもありません。
ただ、いまあらためて思うに、お箸の突き刺さった手羽元とご飯にねじ込められているゆで卵は別料金だったと考えられます(笑)。
適当にうなずいて買ったので、知らずにトッピングしていたのでしょう。ま、しょうがない。
言葉もわからずに中国の家族と交流する
お弁当を買ったはいいものの、どこで食おうかと思案していると、相部屋のご家族の奥さんが声をかけてくれて、窓際の小さいテーブルを空けてくれました。
私は紙に字を書いて自分は日本人であること、旅行で敦煌に行くということなどを伝えました。
この半年前に日本を襲った恐ろしい震災のことなども話したのだと思います。
うまく伝わったかどうかは分かりませんが、このご家族にたいへん親切に接してもらえたことは、この旅の思い出の大きな部分を占めています。
中国の鉄道の飯を食う その2
夕方になってまた車内販売が来たので、お弁当を買って食いました。例によって手羽元付きです。
写真が明るいのは、日暮れの時間が遅いことを意味しています。
中国では時刻の標準である北京から西に遠ざかるほど、日照日没の時刻にずれが生じます。西安では夏は20時を過ぎないと暗くなりません。
中国の列車のトイレ
さて、うんこをしに行きましょう。紙の持参を忘れずに。
ここは洗面所です。消灯前と早朝は洗顔、歯磨きをする人で混み合います。
トイレです。うんこをして拭いた紙は横のゴミ箱に捨てます。
これは列車のみならず、中国のトイレ全てに共通する常識です。当時はまだその認識が新鮮でしたので写真に撮りました。
いまあらためて思うに、このトイレは中国の列車としてはキレイな方だと思います、、、
トイレのついでに足を伸ばし、食堂車の様子をパチリ。
蘭州
相部屋のご家族は蘭州で降りていきました。10分ほどの停車時間があったので、私もプラットフォームに降りてご家族を見送りました。再見!
蘭州を発車すると日が暮れ、あっという間に暗くなりました。
ご家族が出て行かれたので寝台部屋は広々と使えますが、やはり少し寂しいものです。
賑やかだった寝台車両もだんだんと静かになってきました。
寝る支度をして、布団にくるまります。
真夜中、武威を通過する
夜中にふと目覚め、カーテンの隙間から外を見ると武威駅に到着していました。甘粛省の真ん中辺りまで来たようです。
かつて前漢の武帝(紀元前156年 – 87年)が西域攻略に苦心していた時代に「武帝の威、河西に到達す」として名付けられた都市です。かっこいい名前ですね。
もうひと眠りしましょう、先はまだ長いです。
次回は敦煌に到着しているでしょうか?乞うご期待。