2011年10月、シルクロードの街として有名な観光地「敦煌(とんこう)」を訪れました。
前回は敦煌郊外の「陽関」を訪ねました。
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玉門関から遥かなる西域を望む
玉門関と漢長城と河倉城跡は1セットで見学
うまい麺をいただいた後、車は荒野の道を北へ1時間疾走し、「玉門関」へやって来ました。
サングラスをしたおじさんが馬さんです。ちょっと近寄りがたい風貌ですが、実に親切で人のよいおじさんでした。

玉門関では隣接するように佇む漢長城と河倉城跡を一緒に見学できます。

漢長城
玉門関の中には前漢の時代の長城の跡もあります。
万里の長城は北方騎馬民族「匈奴(きょうど、ションヌー)」の侵攻からの防波堤として秦の始皇帝が建設した(紀元前214年)のが有名ですが、始皇帝の前の戦国時代からすでに建設が始まっていました。
以来千年以上に渡り、時の為政者は長城の拡張を続けてきました。中国の歴史は、絶えず他民族からの侵攻に悩まされ続けた歴史でもあります。
前漢の第7代皇帝の武帝(紀元前141年 – 紀元前87年)は匈奴討伐、西域攻略に熱い闘志を燃やしていましたから、おそらくこの長城も武帝の時代に造られたものではないか、と素人のワタクシは推察します。





玉門関
売店で作業するおじさん。変わった石や木の切り株を掃除して売り物にしているようです。

「玉門関(ぎょくもんかん。玉门关:ユーメングアン)」は先ほど訪れた陽関よりも先に建設されました。
当時西域との交易で盛んに取引されたのが現在新疆ウイグル自治区のホータンで産出される翡翠でした。
宝石のことを「玉」と言いますが、翡翠などの玉の不正な取引を防止するための税関として玉門関は機能しました。




小さな川が流れており、この周辺だけは草が生い茂っています。

河倉城跡
河倉城(ハーツンチャン)跡は駐留していた兵士やその家族のための食料庫があったとされています。




ここでしばらく何もせず立っているだけで紀元前の昔にタイムスリップできるような思いがします。

敦煌の街に戻る
敦煌の街に戻ります。
敦煌の街はずれで馬さんの車に給油します。馬さんの車はワーゲンの天然ガス車でした。給ガスですね。

近くの川のほとりでちょっと休憩します。





おばさんが何か釣っていました。

さすが、中国の公園には卓球台がありました。


小籠包を食う
夕食は小籠包と麺です。

いまあらためて思うに、中国の西の端に来て東の端の天津の料理を食べるというのもちょっと微妙な話ですが、当時は何もかもが珍しかったですので何の問題もありませんでした。
肉まんもボリューミーで熱い肉汁がしたたり、麺もスープが酸っぱ辛く旨味があるもので、どちらも美味しかったです。


店を出てしばらくすると日が暮れてきました。





次回、「楡林窟」「鎖陽城」を経由し、嘉峪関に向かいます。敦煌編最終回!
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