唐高宗と武則天の陵墓「乾陵」の訪問記その1です。
唐高宗と武則天の陵墓「乾陵」
唐の第3代皇帝高宗(在位:649 – 683)は、名君と呼ばれた第二代皇帝太宗の第9子です。
日本ではちょうど「大化の改新」が発生した辺りで、日本の情勢が揺れていた時代でした。
高宗は生来病弱だったこともあり、武則天の存在感に隠れ、高宗自身にスポットが当てられることは少ないようです。
高宗の在位中には朝鮮への出兵を精力的に行い、白村江の戦いでは倭と百済の連合軍に勝利し、次いで長らく敵対していた高句麗を滅ぼし、一時は朝鮮半島をほぼ支配することがありましたが、これもどちらかと言うと武則天の功績として数えられてしまうことが多いようです。
武則天はどんな人
武則天(あるいは則天武后とも)は太宗の時代に後宮に入り、太宗には遠ざけられていましたが、もともと奥さんのいた高宗になんやかやと取り入り、後に皇后の座を奪取、病弱な高宗の代わりに執政に関与し始め、高宗の死後はその実権を握り、果ては唐を乗っ取り国号を「武周」と変えたという、中国史上たったひとりの女帝なのであります。
後世の評価では武則天自身の政治的な功績は少ないようです。
一方で国が乱れる大きな異変もありませんでしたが、これは太宗時代の善政により国が保たれていた「貯金」によるものとも言えるでしょう。
ただひとつ、彼女のもっとも優れていたことは「人を見るに敏」であったことです。
武則天は人材登用能力に優れていたのです。(最高権力者に取り入りその実権を我が物にしたという意味では「機を見るに敏」でもありました)
彼女が見出した宰相に、
狄仁傑、姚崇、宋璟、張説
らがおり、彼らは次世代、すなわち玄宗皇帝の治世「開元の治」をもたらす原動力となりました。
自分が唐王朝譜代の人間からの信頼がないことを自覚していた武則天は、職位は低いが能力のある者たちを積極的に採用していった(自分の言うことによく従う)という側面もあるでしょう。
武則天と日本
武則天は我が国日本とも縁のある人物です。
彼女が権力の座に付いていた当時、日本は「倭」から「日本」と国名を変えていました。
けれどもそれは「自称」で、自分たちだけで「私たちは日本人」と、そう呼び合っていただけに過ぎませんでした。
701年に日本から長安に赴いた遣唐使が携えた文書には国号「日本」が表記されており、
それを読んだ初めての中国皇帝が武則天だったわけです。
この時初めて「日本」という国名が国際的に認知されたことになったのです。
さて、例によって続きは次回に!