2016年12月、1泊2日で陝西省の韓城市に行ってきました。
- 1日目:朝、西安駅から鉄道で韓城駅に移動。司馬遷墓、韓城古城、文廟を見学
- 2日目:党家村、大禹庙を見学し、鉄道で西安駅に戻る
前回は韓城市内の中心に位置する韓城古城(旧市街)を歩きました。
中国の古い街並みを観るなら韓城はうってつけの街
黄河を眺む
12月18日の午前7時半起床。宿を8時過ぎにチェックアウトしてタクシーで「古渡竜門景区」に向かいました。
9時半に到着。風が強い。韓城の市街よりもかなり寒く感じます。
しかもなんだかちょっと寂れた感じがして、ここが「景区」と名付けられているような場所なのかどうか甚だ疑問。
とはいえ黄河は黄河なので、しばらくブラブラします。
この辺りのどこかにある流れが急な一帯を特に「竜門」と呼ぶそうです。
「登竜門」の故事に関する説明をwikipedeiaから引用します。
“https://ja.wikipedia.org/wiki/登竜門” から引用
登龍門(とうりゅうもん)は、成功へといたる難しい関門を突破したことをいうことわざ。特に立身出世のための関門、あるいはただ単にその糸口という意味で用いられる。鯉の滝登りともいわれ、鯉幟という風習の元になっている。
「膺は声明をもって自らを高しとす。士有り、その容接を被る者は、名付けて登龍門となす」。
この諺は『後漢書』李膺伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあった(党錮の禁を参照)。もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「龍門に登った」と形容したという。
なお「龍門」とは夏朝の君主・禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある龍門山を切り開いてできたとの伝説がある陝西省韓城市と山西省河津市の間を流れる急流のことである。
あの橋を渡ると山西省です。寒い。
やはり黄河は雄大です。黄河とともに歩んだ中原の悠久の歴史に思いを馳せます。寒い。
寒いので黄河は切り上げて戻ります。タクシーは私を降ろしてすぐ走り去っていったし、どのように戻ろうかと思案していると、折よく中距離バスが通りかかりました。
党家村
10時40分、党家村にやって来ました。
こちらも韓城古城と同じく古い建築様式の街並みが今なお残る貴重なエリアとして知られています。
なるほどこれは筋金入りに古そうです。瓦屋根の雰囲気がいいですね。
こういうところに住んでみたいですね。
日本も他の国のこと言えたもんじゃありませんが、現代の中国の大都市の街並みってどの街も建物も大きさには圧倒されますが、近くで見るとどうも安っぽく見えてしまって、、、、
あくまでも「村」ですから規模は大きくないですが、歩いていて飽きることがありません。
宿泊施設もあるようなので、いつかこういう場所に泊まってみたいものです。
馄炖(フンドゥン)を食う
飯にしましょう。レストランがありましたので、席に案内してもらいました。
「馄炖(フンドゥン、わんたん)」をチョイス。
野菜がたっぷりでスープからは野趣あふれる味わい、ワンタンはこぶりでコロンコロンした可愛らしいもの。一瞬で食べ終えました。
大禹庙
13時半、韓城市街の東にある「大禹廟(ダーユーミャオ、だいうびょう)」にやって来ました。
古代中国の王様、帝である「禹(ユー、う)」を祀った廟です。禹は夏王朝(紀元前2000年くらい?)を開いたとされています。
禹の功績は黄河の治水を成功させたことで知られています。
黄河流域に禹を祀った廟は多くあります。本当にいたかどうか分からない大昔の人をお祀りしするくらい、人々は黄河の氾濫に絶えず悩まされ続けていたのでしょう。
韓城はよいところだった
大禹廟から路線バスで韓城駅に向かい、夕方の列車で西安に戻りました。
韓城は人もそんなに多くなく、穏やかな街で私にはとても楽しめました。西安にちょっと長めに滞在できるチャンスのある方には、韓城はオススメの場所だと思います。
以上、陝西省東端の街「韓城」を訪ねる旅でした。
ここまで読んでいただき、大変感謝!
ありがとうございました!