豊臣秀吉と加藤清正のゆかりの地
もっと注目されてほしい戦国時代の史跡群
2023年9月、名古屋市中村区にある中村公園を訪問しました。
先に参道にあるラーメン店「太陽食堂」に立ち寄りました。美味しゅうございました。
中村公園には豊臣秀吉を祀る「豊国神社(とよくに・じんじゃ)」を始めとして、この地を出身とする秀吉、加藤清正にゆかりのあるスポットがあります。
「史跡」というほどには実際の秀吉、清正が歩んだ歴史と直接の関わりは薄かろうというので「スポット」と表現しましたが、当地には秀吉の奥さん「ねね」の甥である「木下長嘯子(ちょうしょうし)」の住まいとされる場所があったりします。
尾張・三河に戦国時代の史跡は思いがけない場所に思いがけなく存在します。
有名な史跡としては、織田信長が桶狭間の戦いに臨む前に参拝した熱田神宮、名古屋市緑区にある桶狭間合戦場、長久手市の長久手古戦場、ちょっと遠いですが新城市の長篠・設楽原古戦場などが挙げられます。他にもたくさんあります。
この分野に興味関心のある方にはとっては面白い地域なのですが、巷では「名古屋にはなんにもない」とか「経済都市の規模ぶりにしてはアピールポイントが乏しい」とか言われてます。まあ分からんやつは来なければ結構と思います。
そもそも当の尾張・三河の人たちが自らの住まう土地にどれだけの価値があるか理解してない人も多く、、、
豊国神社にバリケード?
この日はラーメン店「太陽食堂」を訪れた後に豊国神社を参拝しようとした次第です。
秀吉清正公園とあります。秀吉と加藤清正は同じ土地の出であることが知られています。
なぜか分かりませんが、豊国神社の鳥居にテープが張られており、参拝できないようになっていました。
「危険なので近づかないで下さい」という意味の張り紙がしてあるだけで、なぜ参拝できないのか分かりません、、、
消化不良のまま周囲を散策します。
ラジオ塔
ラジオの普及のために設置されたラジオ塔。戦前、ここにラジオが設置され日がなラジオ放送が聞けるようになっていました。老若男女の賑わいがあったことが忍ばれます。
初代中村勘三郎の石像
初代中村勘三郎の石像。ここ尾張中村の出自なのだそうです。
私は東京在住時、何度か歌舞伎鑑賞をしたことがあるのですが(もっぱら当日券の出る一番安い席で)、ちょうど十八代目が亡くなったあとの頃でした。
歴代の名優の写真の額が掛けられた通路があり、そこでよく十八代目の写真に手を合わせているファンの女性を見かけたのを覚えています。
豊臣秀吉公生誕地
豊臣秀吉が誕生した地とされる石碑が立っています。
ここで本当に生まれたのでしょうか?お百姓さんの家だったから生まれたところまで分からないんじゃ、、、と思いますが、侍、大名、天下取りの過程で生家も有名になって永く残されたということもなくはないですね。
加藤清正ゆかりのお寺・日蓮宗 妙行寺
中村公園の東側にある「妙行寺」です。
清正公生誕の地とありますが、秀吉生誕地同様、信ぴょう性のほどは分かりませんが、名古屋城築城の際に余った資源を用いて両親や先祖を弔うための祠をここに築いたとの記録があるそうです。
ところで清正公の死因は実際のところどうだったのでしょうか?
豊臣方のトップとして、家康側との交渉が進行中の最中に突然発病して亡くなったことで、パワーバランスが家康側に傾いたことは容易に見て取れますが、、、
秀吉の甥の邸宅跡・日蓮宗 常泉寺
妙行寺の北側には常泉寺というお寺があります。お寺には秀吉の石像や縁のあるとされる井戸があります。
秀吉の石像の裏手に「木下長嘯子(ちょうしょうし)」の邸宅跡の石碑が立っています。彼は秀吉の奥さん「ねね(高台院)」の甥っ子らしいです。風流をたしなむ人物であったようです。
秀吉清正記念館
中村公園の西側にある中村区図書館と同じ建物の2階に「秀吉清正記念館」があります。入場無料!
小さな博物館といったところです。広くはないですがそれなりに展示物は多く、見ごたえあります。
豊臣秀長。豊臣家のナンバー2。秀吉と他大名をつなぐパイプ役として活躍しましたが兄秀吉よりも早く亡くなりました。いい人イメージがある秀長ですが、なんとなくいかめしい顔つきをしています。
展示品の多くは複製品ですが、中には本物もあります。
この「棗(なつめ)」という茶道具は秀吉が信長からもらったものだそうです。
こちらは徳川2代将軍秀忠が高台院に手紙を送った際に手紙を入れた箱。
というわけで、中村公園の豊国神社から秀吉清正記念館まで1時間ちょっとで見て回ることができます。
戦国時代がお好き方におかれましては、一度は訪れてみることをオススメします。
以上、名古屋の名所旧跡「秀吉を祀る豊国神社と秀吉清正記念館」を訪ねました。
ここまで読んでいただき、大変感謝!
ありがとうございました!